16 ねむれない夜

 久々に寝転んだ自分の部屋のベッドは、おひさまと花の甘い香りがした。きっと、お母さんが洗濯をして干してくれていたのだろう。
 だというのに、夜が更けても眠れずにいる。

「……お水でも飲もうかな」

 ひっそりと呟いて、枕元で眠るツキミとサクを起こさないよう静かにベッドを降りる。ベッドの近くでうつ伏せになっているマソラに気を遣うのも忘れない。
 部屋を出て、二階から一階へと続く階段を降りていく。ダイニングキッチンの灯りがついていることに気がついて恐る恐る覗き込むと、お母さんがイスに座っていた。

「どうしたの?」

「……なんか、眠れない」

「そっか。……おいで」

 手招きされて、お母さんの向かい側のイスに座る。どうやら何かを飲んでいたらしい。テーブルに置かれたピンク色のマグカップからは、ほんのりと湯気が立っていた。

「エネココア飲む?」

「うん」

 頷くと、お母さんは立ち上がって食器棚から私のマグカップを出す。牛乳を注いで、オーブンレンジに入れた。

「ポケモンたちは?」

「よく寝てるよ。みんなマイペースだから……ポケモンセンターで借りたお部屋でもすぐ眠っちゃう」

「サクちゃんも?」

「うん。大丈夫そう」

 昼間はソファーのクッションに埋もれて隠れていたサクも、少しは落ち着いたらしい。ご飯もきちんと食べてくれたし、パニックになって逃げ出すようなこともなかった。

「きっと、アヅサの匂いがするから安心するんだろうね」

「……そう、かな?」

「うん。サクちゃん、アヅサに抱っこされてるときはとても穏やかな顔してるよ」

「……そうかなぁ……?」

 いつもと変わらない、無表情だった気がするけど。
 首をひねる私にお母さんはくすくすと笑う。それから、温まった牛乳にチョコレートクリームを混ぜ合わせた。

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

 差し出されたマグカップからは湯気が上がり、甘く香ばしい匂いを運んでくる。明らかに熱そうなそれをふぅふぅ息を吹きかけて冷ましながら、ゆっくりと一口飲んだ。

「あちっ」

 案の定ちょっぴり火傷しつつも、舌に広がる濃厚な甘みにうっとりする。

「おいしい」

「よかった」

「……ねえ、お母さん」

「うん?」

「……私さ、家に帰ってきて……お母さんやスズミの顔を見て、ほっとしたんだ。でも、なんでかどきどきして……眠れなくて……」

「うん」

「あんなにいっぱい話したのに……マサラを出てからここに帰ってくるまでの冒険のことばかり、考えちゃう」

「そうなんだ」

 マソラとの出会い、初めてのポケモンバトル、ツキミをゲットしたこと、マソラの進化、サクを引き取ったこと……。
 そのどれもが、あまりに鮮烈で。じっとしていられなくなる。

「お母さん、私――また、旅に出たい。ポケモンたちと、いろんなところに行って……もっとたくさんの、思い出を作っていきたい」

 明確な目的なんてない。でも、気になることや挑戦してみたいことはある。……もしかしたら、どこかでレッドくんに会えるなんてことも、あるかもしれない。

『アヅサちゃんがもう少し大きくなったら、一緒に旅に出よう』

 君は、約束を覚えていないかもしれない。だからもう、待つのはやめることにする。
 私は――君と同じ、ポケモントレーナーになったから。

「うん、わかった」

「いいの!?」

「ただし、こまめに連絡すること。破ったら、お父さんに頼んで即おうちに連れて帰ってきてもらいます」

「もちろん! 絶対絶対、毎日連絡する!」

 ぶんぶん首を縦に振ると、お母さんはどこか仕方なさそうに小さく笑う。

「……少し前までこ〜んなに小さかったのに。ポケモンと一緒にどこまで進んでいけちゃうくらい、大きくなったんだねぇ……」

「そんな豆粒みたいなサイズじゃないよ……」

「お母さんのお腹の中にいたときは、これぐらいだったの」

 指で小さな何かを摘まむような仕草をするお母さんにツッコめば、しれっと言い返されてしまう。……こんなやりとりも、また当分できなくなるのかな。
 そう思うと、なんだか目の奥が熱くなって。立ち上がり、お母さんのそばまで寄って抱きつく。温かい手が優しく背中をさすってくれた。

「大丈夫。いつでも帰っておいで」

「……うん」

 お母さんの服がじんわりと濡れていく。それでも顔を上げることはできなくて。
 しばらくそうしていると、お母さんが小さく吹き出した。

「アヅサが戻ってこないから、心配になっちゃったかな」

「え?」

 どういう意味だろう。そう思った瞬間、足元に何かが触れた。

「ちゃあ……?」

「ツキミ……」

 不思議そうにこちらを見上げている小さな黄色い身体を抱き締める。ふわふわで、あったかい。

「ぎゃお」

「…………」

 廊下の方から様子をうかがっているのは、マソラとサクだ。前足で眠そうに目を擦るマソラの後ろで、サクが小さくあくびをしている。

「……みんなでエネココア、分けっこしよっか」

「ぴかちゅ!」

 ほどよく冷めたエネココアの入ったマグカップに目を向ければ、ツキミが元気よく返事をする。それを聞いたマソラとサクも興味津々で駆け寄ってきた。
 きっと、ココアはあっという間に飲み干されてしまうだろう。それでもいいと思った。……みんなと、分かち合いたいなと、思ったから。