それはまだ見ぬ、いつかの夢(リリア・ヴァンルージュ)

 中庭のベンチに腰掛けて教科書をぱらぱら捲っていると、突然目の前に逆さづりの美少年が現れた。
「ぎゃーーーー!?」
 声を上げてひっくり返りそうになる私を、軽やかに地上へ降り立ったそのひとが恭しく手を取って支えてくれる。くふくふ笑うその姿は悪戯っ子にしか見えないが、私よりも年上なのだから不思議でしょうがない。
「お主は相変わらず良い反応をしてくれるのう。驚かせ甲斐があるわ」
「先輩に驚かされるたび、私の心臓は止まりそうになるんですけど……」
「その時はわしの愛のキッスで人工呼吸して目覚めさせてやるから安心せい」
「ちっとも安心できませんけども!?」
 冗談じゃ、と笑ったリリア・ヴァンルージュ先輩は、私の隣に腰掛けると手元の教科書を指でつついてくる。
「勉強しておったのか。感心じゃのう」
「いや……勉強というか。気になったところをちょっと見てたって感じです」
「気になったところとな?」
「獣人とか、妖精についてとか。……私の世界では、空想上の存在でしたから」
 この世界の歴史は、私からすると壮大な長編小説のようだった。もちろん、この世界の人たちにとっては過去に実際あったものなのだが。
「お主の世界に妖精はおらんのか?」
「そうですね」
「……ということは、この世界に来るまで妖精に会ったことはないんじゃな?」
「そう、なりますね?」
 質問の意図がいまいち掴めず首を傾げると、ラズベリーレッドの大きな瞳が妖しげに細まる。
「監督生よ」
「はい」
「お主、昔わしと会ったことないかや?」
「……ないと、思いますけど……」
「え〜? ほんとかの〜?」
「いや、ないですって……先輩みたいな方、会ったら忘れられませんよ……」
 自慢じゃないが、私は面食いだ。こんな美少年、そう簡単に忘れるはずがない。
「どうしてそう思ったんですか?」
「……何故だろうなぁ?」
「聞かれても」
「妖精、獣人、人魚、人間……今まで種族問わず、多くの者と関わってきたからのう……全員覚えとるわけなかろうよ」
「それはまあ、そうかもしれませんけど」
 うんうん唸りながら、リリア先輩は私をしげしげと見つめてくる。居心地の悪さを感じながらも、好きにさせておく。……逃げてもあっという間に追いつかれるのは目に見えていた。
「なーんか見覚えあるんじゃよなぁ。もしかしたらお主の祖先とかに会ったことがあるのかもしれん」
「私のご先祖様がこの世界にいたとしたら、びっくりどころの話じゃないんですけど……」
 大体祖先って、どれくらい遡るつもりだ。リリア先輩が外見相応の年齢ではないことぐらい、薄々察してはいるが。
「祖先でもないとすると……」
「っわ……!?」
 唐突に手を掴まれて立たされる。膝に乗せていた教科書が、ばさりと音を立ててベンチの上に落ちた。
「いつかの夢で、逢瀬を交わしたのかもしれんな?」
「……夢、って」
「こうして身を寄せ合って、ダンスしたりとかのう」
 もう片方の手が、私の腰辺りに添えられる。楽しげに鼻歌を歌いながらくるくると踊り出す彼に、私も足を動かざるを得ない。
「それはまた、随分と……ロマンチックなことを、言うんですね」
「惚れるじゃろ?」
「惚れ……うーん……」
「何じゃその煮え切らん返事は」
 だって、どう答えても本心を隠せそうにないから。
 そんな私の考えもお見通しなのか、リリア先輩はにまにまと笑っている。そっぽを向けば、くるくるとターンを決めさせられた。
「っちょ、急に危ない……」
「何、お主に怪我などさせんよ。わしがしっかり支えておるからな」
「そういう問題じゃ……」
「くふふ、楽しいのう。なあ、監督生や」
 ひどくご機嫌な先輩が飽きるまで、おままごとのようなワルツが終わることはなかった。

◇◆◇

 暗くて、どろどろした闇を抜けた先。深い森の中。
「お前たちは何者だ? 素直に吐け。この魔石器の曇りと消えたくないならな」
 そこにいるのは、飄々と笑うあのひとではなく。
 恐ろしい面を身につけて、不思議な響きの言葉を話す――夜の眷属。

 これは、あなたが見ているいつかの夢。

2023年7月7日