こいごころって、むつかしい

 仕事も終わり、一息ついてから帰ろうかな〜なんて。そう思って、レスティングルームに立ち寄っただけだったのに。
「あづさちゃん、ちゅーしよ……?」
「だめです五十鈴さん! あづささん、早く離れるのですよ!」
 だいぶカオスな状況に陥っています。
「二人とも、ちょっと落ち着いて……」
「ぼくは落ち着いています!」
 こちらにむっとした顔を向けた要くんの向こうで、ほんのり頬を赤く染めた五十鈴さんと目が合う。ふにゃりと微笑んだ彼女は、要くんに抑えられながらも手を伸ばして私の服の裾を掴んでいた。
「ね、あづさちゃん。あづさちゃんとちゅーしたいの。だめ?」
「だめです!」
 私の代わりにきっぱりと答えてくれた要くんに視線を向けた五十鈴さんは、拗ねたように唇を尖らせる。
「かなめくんには、きいてない」
「そ、そうかもしれませんが、だめなものはだめなのですよ!」
 どうしてこんなことになったのか。なんて状況を整理しようにも、私がここに来たときには五十鈴さんはもうこんな感じだった。どうやら、お酒の入ったお菓子を食べてしまったらしい。つまり、今の彼女はキス魔の酔っ払いなのだ。
 戸惑う私に引っ付いてくる五十鈴さんを引き剥がしたのは、慌てて駆け込んできた要くん。ふらふらと徘徊し始めた彼女を追いかけてきたらしい。私にキスをせがむ五十鈴さんを見て、何とも言えない顔をしながらも助けてくれている。
 まあ確かに、好きなひとが他人にキスしようとしてたら複雑な気持ちにもなるだろう。
 さて、そろそろ現実逃避するのはやめて、ちゅーしたい、だめですのやりとりを繰り返す二人をなんとかせねば。
「五十鈴さん」
 呼びかければ、五十鈴さんはとろんと笑って私を見つめた。怪訝そうな顔をする要くんに、大丈夫だと微笑みかける。
 要くんが仕方なさそうに五十鈴さんから離れたところを見計らって、彼女を抱き締めた。
「なにしてるのですか!?」
「要くん、しー……大丈夫」
 一定のリズムを保って、五十鈴さんの背中をぽんぽんと叩く。
「……あづさちゃん……?」
「五十鈴さん、おやすみしましょう。あとでゆっくり、お話ししましょうね」
 声色は絵本を読むときを意識して、なるべく優しく、柔らかく。
 しばらく続けていると、五十鈴さんの瞼が重たげに閉じられて。だんだんと私に寄り掛かってきたかと思うと、穏やかな寝息が聞こえてきた。
「か、要くん、ちょっと……手伝って……」
 流石に私一人じゃ五十鈴さんを抱きとめてあげられなくて、見守っていた要くんに助けを求めれば近くのソファーまで運ぶのを手伝ってくれた。
 お酒の力が大きいのだろう、健やかに眠っている五十鈴さんの様子を見てほっと息をつく。
「あづささんは、魔法使いなのですか」
「え、なぜ……?」
 唐突な質問に首を傾げると、要くんは真剣な眼差しで私を見据えてくる。
「ぼくがこの前、五十鈴さんを宥めたときは大変だったのです。なのに、あづささんはあっという間に五十鈴さんを眠らせました。魔法を使ったとしか思えません。魔法使いではないのなら、妖精さんだからなのですか?」
「魔法使いでも妖精さんでもないよ……」
 今回はたまたま上手くいっただけだ。五十鈴さんがお酒を飲んでいたのと、絵本を読み聞かせるときの私の声が噛み合った。ただ、それだけ。
「あづささんは、ずるいのです……」
「ずるい、って」
「五十鈴さんは、あづささんによく甘えます。体が触れ合っても、怖がったり驚いたりしません。……だから、ずるいのです」
 向けられた甘酸っぱい嫉妬が、なんだかむず痒くて。にやけてしまいそうなのを堪えながら、言葉を返すために口を開く。
「五十鈴さんは、よく要くんの話をするよ。その時の五十鈴さんは、すごく楽しそうで……可愛くて、きらきらしてる。要くんのこと好きだって気持ち、話を聞いてるだけの私にもたくさん伝わってくるくらい」
「……そう、なのですか?」
「うん。五十鈴さんが要くんに触れられたとき、びっくりしちゃうのは……きっと、触れられ慣れてないだけじゃなくて。どきどきしちゃうからなんだよ。……好きなひとに触れられるんだもの。どきどきするし、嬉しいし、安心もするし……要くんも、そういうとき、ない?」
「……」
 要くんは少し悩む素振りを見せた後、こくりと頷く。それから、五十鈴さんへと目を向けた。目元に朱を帯びながら彼女を見つめるその瞳は、水面に浮かんだ月みたいに揺らいでいる。
「今はきっと、どきどきする気持ちが大きく出ちゃうんだろうね。でもいつか、嬉しいとか安心するって気持ちが、前に出てくるから。要くんは、五十鈴さんの傍にいて、その気持ちに向き合ってあげていれば……なんにも、心配しなくていいと思う」
「……あづささんも、そうなのですか?」
「うん?」
「あづささんも、お兄ちゃんに触れられると……どきどきも、安心も、するのですか?」
 まさかの質問に、一瞬呆けてしまう。彼とよく似た顔立ちで繰り出されたそれに、何と答えようか迷って。
「――うん、そうだね」
 結局、素直に頷いていた。
 私の答えに満足したのか、要くんは誇らしげに笑う。
「お兄ちゃんは、かっこよくて頭も良いから当然なのですよ!」
「うん」
「……お兄ちゃんも、あづささんに触れると、どきどきするのですかね?」
「それは本人に聞いてほしいな……」
「わかりました。後で聞いて、あづささんにも教えてあげます。あづささんの気持ちだけ知っているのは不公平なので!」
「あはは……ありがとう……」
 はたして彼が正直に答えるかどうか。そして教えてもらうのも地味に気恥ずかしいのだが。
 楽しそうな要くんの様子に水を差すのは憚られて。ただただ、苦笑いを浮かべるしかなかった。