01 真夜中の夢路は全て幻で
癒えぬ渇きに咆哮を上げ続けた百獣の王は、降り止まぬ雨の中立ち竦む異邦の少女と出会いました。
◇◆◇
獣の唸るような声で、浅い眠りから呼び覚まされた。
――オクタなんとか寮の寮長にオンボロ寮を差し押さえられた私とグリムが、一緒にいたジャックの好意に甘えサバナクロー寮にやってきたのが数時間ほど前。
契約の期限である三日後まで、サバナクロー寮の寮長であるレオナ先輩の部屋に寝泊まりすることになった。
俺の眠りを妨げるなと言い残し、三秒で眠ってしまった先輩を見習って、私とグリムもジャックが持ってきてくれた布団に寝転がったのだが。
隣で眠っているグリムは鼾をかいているものの、それは聞き慣れたもので今更気にするようなものでもない。
慎重に体を起こし、月明かりの差し込む室内を見回すが他の生き物が入り込んだ様子はなかった。
ということは、この唸り声の主はあの人しかいない。
なるべく音を立てぬよう、部屋に鎮座する大きなベッドへと近づいた。
思った通り、そこで眠るレオナ先輩が威嚇するように喉を鳴らしているようだった。
彫りの深い端整な顔立ちは、どこか苦しそうに歪められている。
何か悪い夢でも見ているのだろうか、とふと先ほどのラギー先輩の言葉を思い出した。
『マジフト大会での傷がまだ癒えていない』
あれは彼自身のことであったが、レオナ先輩も同様だろう。
魔法の使いすぎによる暴走、オーバーブロットを引き起こしたのだから。
『努力したってどうしようもねぇことがこの世の中にはいくらでもあんだよ』
その言葉を聞いたとき、ぎしりと胸の奥が軋んだ。
頑張れば報われる、なんて綺麗事だということをこの人はよく知っているのだと思った。咆哮は怒りであり、嘆きだった。
どうやったって覆せないことを続けるのは、苦しい。
ほんの少し迷って、レオナ先輩に手を伸ばす。
その瞬間、ぐるりと視界が回って背中を打ちつけていた。
「何をしている」
爛々と輝く、宝石みたいな緑色の瞳がこちらを見下ろしている。
手首を掴まれているのか、縫い止められたように動かない。
「俺の眠りを妨げたら、食ってやると言ったのを忘れたのか」
「……先輩が、その、魘されてたみたいだったので、気になって。すみません、でした」
「…………チッ」
緊張で辿々しくつっかえながらも理由を言えば、舌打ちしながらも掴んでいた手を離してくれる。
「わ、悪い夢でも、見ていたんですか」
「覚えてねえよ、そんなもん」
身を起こしながら訊ねれば、苛立たしげに突っぱねられる。
「その、マジフト大会から、体の調子とかどうですか。大丈夫ですか……?」
「あの程度でくたばるほど柔じゃねえ」
「そう、ですか。よかった」
「……おい、そこの棚に飲み物とグラスが入ってる。取ってこい」
「えっ、あ、はい」
先輩が視線を向けた先にある棚には、液体の入った瓶と綺麗な装飾が施されたカットグラスが一つ入っていた。
「どうぞ」
「ああ」
先輩は瓶とグラスを受け取ると、瓶の蓋を開けて中身をグラスに注ぐ。
ふわりと香ってきた匂いに思わず「えっ」と声を漏らした。
「あ?」
「いや、その、それ、お酒ですよね」
「だからなんだ?」
悪びれることのない堂々とした態度に、こちらが間違ったことを聞いているかのように思える。
「言っておくが、俺はとっくに成人してる」
「えっ!?」
「ここにいる奴らが全員学年通りの年齢だと思ってたら大間違いだ」
「はあ……」
言われてみれば、飛び級とか留年とかあるもんな……。でも確か、先輩は留年してるんだっけ? それって開き直って言うようなことではないのでは……?
「おい、いつまで目の前に突っ立ってやがる」
「あ、すみません」
「……気になるなら飲んでみるか?」
レオナ先輩が手に持ったグラスを揺らす。琥珀色の液体がゆらゆらと波打つ。
ニヤニヤと笑う先輩はどう見ても面白がっており、少しだけむっとした。
どうせ、私には飲めないとでも思っているのだろう。
「飲みます」
「おらよ」
グラスを受け取り、ごくごくと全て飲み干してみせる。……味はよくわからない。美味しいとも言えないし、かといって不味いわけでもない。不思議な味わいと、どことなく香ばしい匂いだけが口の中に残っていた。
「ごちそうさまでした」
グラスを突き返せば、一瞬目を見開いたレオナ先輩がくつくつと笑い出す。
「随分といい飲みっぷりだなァ、おい。ぶっ倒れても面倒なんざ見ねえぞ」
「これぐらい余裕です。多分、私お酒強いので」
「へえ、そうかよ」
「そうですよ。うちの家族、めちゃくちゃ強いかめちゃくちゃ弱いのどっちかなので。姉なんか、一口飲んだだけですぐに寝ちゃうんですよ」
……あ、そっか。
「私が唯一、姉に勝てることかもなぁ……なんて、あはは……」
「……酔ってんじゃねえか」
そうなのかな。そうかもしれない。こんなこと別に、言いたかったわけじゃなかったのに。
――私の姉は天才だ。何事に対しても、百パーセントどころか百二十パーセントの結果を出すような人。
そんな姉に憧れて、一緒に並び立ちたくて、何でも真似をしていた。
けれどどんなに頑張っても、姉のようにはなれなかった。周囲の評価は厳しくて、百パーセントにすら届かなかった。
「お姉さんには勝てないよ」と言われたことがある。……別に、勝ちたかったわけじゃない。隣にいたかった。それだけだった。
でも、そうやって頑張ることにも限界が来てしまった。
『もう充分頑張ったよ。だからもう、お休みしよう』
もっと早く言ってあげられなくてごめんね、とお母さんに言われた。あの時の悲しそうな顔が忘れられない。私は自分のことに必死で、大切なひとが心配してくれていることに気がつかなかった。
努力は必ずしも報われない。どうやっても覆せないことは、世の中にはある。
けれど、努力を無駄だったとは思わない。
「レオナ先輩は、すごいです」
「あ?」
「先輩の、どんな手を使ってでも勝とうとするところとか、それを思いつく頭の良さとか……」
「余程食われたいらしいな」
「ほ、ほんとに! 本当に、そう思ってるんです。……例え報われなくても、今までしてきた努力を無駄にしない人だと、思ったから」
「……お前も、ジャックも、俺に夢を見過ぎなんだよ」
「それぐらい、かっこいいってことですよ」
「かっこいい、ねぇ?」
「えっ、いや、その、変な意味はなくて、いや確かにかっこいいんですけれど、その、あの」
まじまじとこちらの顔を覗き込む鮮やかな緑色の瞳から逃げるように視線を逸らす。
「その手の賛辞は慣れてるが、まあ悪くはねえ」
「……でしょうね……」
さぞおモテになるでしょうよ。
「お前の長話に付き合ってたら眠くなってきた。俺は寝る」
レオナ先輩はいつでも眠たそうじゃないですか、という言葉は飲み込んだ。変な話に付き合わせてしまったのは事実だ。
「レオナ先輩、話聞いていただいて、ありがとうございました。……おやすみなさい」
「ああ」
レオナ先輩はどっかりとベッドに横たわると、瞬く間に寝息を立て始めた。……感心するほどのおやすみ三秒だなぁ。
私もグリムの隣に横になって、目を閉じる。
「ただの弱っちい草食動物の話なんざ、黙って聞いてやる義理はねえんだよ」
そんな、都合のいい言葉が聞こえたような気がした。